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モンゴル・レター

No.41 2004/12/12(不定期発行)

 

「モンゴル人」としてでなく「人」として立ち上がる時が来た

 

「・・・モンゴル国独立記念日に中国当局が内モンゴルのモンゴル人学生を勾留した・・・」

内モンゴルにあるチンギス・ハーン廟を中国の富裕なビジネスマンが買収したことに端を発しておこった内モンゴル学生による反対運動を中国当局が弾圧している。これに関して欧米のメディアは簡単に伝えた一方、内モンゴルはともかくモンゴル国においてもまったく報道されなかった。この反対運動と時期が重なったため、わが国のロックバンド「ホルド」のコンサートは、内モンゴルの「悪質なファンのため」という名目で中止された。この事件について掲載した外国メディアの情報をある新聞が翻訳し掲載したので、少し安堵した。

この問題の本質は非常に深い。生まれ故郷にもかかわらず少数派として差別され、牧草地を失い、崇拝の対象までも陵辱されている内モンゴルのモンゴル人にとって、このことは突きつめれば「生きるか死ぬか」という命がけの問題なのである。20世紀はじめに始まった牧地の開墾は蒋介石時代にいっそう激化し、中国南部の省から多数の漢人が内モンゴルに移住し続けた。内モンゴル自治区成立当初はしばらく勢いがにぶったものの、1950年代終わりには「農業重視」という新しい政策の名のもとで機械化し広域化していった。1970年代に入ると、チャハル草原のほとんどのホショー(旗、行政単位)牧地が開墾されてしまった。内モンゴル大学のS.ソドビレク氏は「チャハルの土壌改良と自然環境革命」という論文で「長期間にわたる移民、牧地開墾の結果、内モンゴルにおける漢人の人口はモンゴル人のそれをはるかに超え、チャハル南部の住民はほとんどが漢人になってしまった。モンゴルの伝統的なライフスタイルは基本的に失われ、南部では生態バランスも破壊されている。チャハル北部では、南部から追われたモンゴル人が移住して人口密度が高まり、残ったわずかばかりの牧地は砂漠化の危険にさらされている」と書いている。

インジアナ大学のクリストファー・P・エドウッドは「2001年、中国政府は『生態移民』という新しい政策によって25万の牧民を牧地から移住させ、遊牧から定着牧畜に移行させるという決定を下した。その結果、人口構成、つまりモンゴル人にどんな影響がもたらされるのか、内モンゴルの人権がどうなっているのかについてこれまで何も報道されていない」と述べている。

「牧民の生活条件を改善する」という名目で土地を収奪して定住文明に組み入れ、近代的な発展や民族意識の高揚を抑制しようとする中国の政策は、内モンゴルのモンゴル人のインターネット・サイトを強制的に閉鎖した事実や崇拝の対象に対してまで遠慮なく介入し始めた今般の事件からはっきり見てとることができる。幸いにも国外に脱出したモンゴル人、なかでも、アメリカや日本で暮らすモンゴル人たちはインターネットで議論し、一連の動きを強く批判して「同郷・同胞のために」という心情を吐露する者がふえている。彼らの間で広がっている情報によると反対運動を組織していた内モンゴル大学の学生らは全員逮捕され勾留されており、内モンゴルのすべての文化人に対し厳しい監視、捜査がなされているため、モンゴル国独立記念日の1126日に予定されていた内モンゴルの学生による蜂起は不可能になったという。

このようにモンゴル国独立記念日に中国当局は内モンゴルの学生を拘束した。2000年から内モンゴル人全体をサイバー上で結んでいた上記のサイトは、中国特務機関の監視下に入り、サイト上の議論にしばしば介入を受け混乱させられていたが、2004年いかなる説明もなく強制的に閉鎖させられその活動を停止した。

 

 (モンゴル国『デーデスィーン・フレーレン』紙2004126付)

[編集後記]

 一連の事件についてモンゴル国のメディアに掲載された数少ない記事のひとつである。内モンゴルの近代史にもふれ、事件の背景もわかりやすく解説している。漢化の程度が様々で多様な内モンゴルをステレオ・タイプ化して「ホジャー」(内モンゴルや中国人に対する蔑称。漢語の「夥計」または「華僑」という言葉が起源といわれる)と、さげすむのは非常に容易なことである。ただ、ホジャーが口癖のモンゴル人でも、モンゴル文字をスラスラと書き、モンゴル語を自由にあやつる内モンゴルのモンゴル人たちを「100パーセント、モンゴル人ではない」と否定できる者はいないであろう。自分たちの文化の一部をになう集団であることにはちがいないのだ。漢民族という何千年来のライバルと最前線でたたかい、また共存してきた内モンゴルのモンゴル人たちの歴史や生きざまから学ぶものがあるはずである。「ホジャー」の一言で片づけ安穏としていられた時代はすでに過ぎ去っている。

 

 [編集・発行] SMHRICOSAKA

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